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男性が助産師になれば、いろいろと問題があることはわかる。しかし、それは「できない理由」ではなく、「克服されるべき障壁」と認識されるべきだ。

以前は視覚障害があると医師にはなれなかった。今は、もちろんできる。身体的なハンディキャップは「できない理由」にすれば、いくらでもすることができる。「克服されるべき」課題にすれば、たいていのことは克服できる。要は問題の捉え方の問題である。

ぼくの知っている医師に聴覚障害を持つひとがいる。電話でのコミュニケーションが困難なので、そのときは隣でナースが介助する。この医師を「マンパワー的に問題だから」と排除することは可能である。「できない理由」だ。しかし、それでよいのだろうか。そのような論理こそがハンディキャップを持つ者が社会から排除される容易な動機付けになるのではないだろうか。医療者はむしろ、このようなハンディキャップを克服すべく、最大限の支援を行うようなメンタリティーをその根源に必要としているのではないだろうか。患者とは、ほとんどの場合そのようなハンディを背負っている人たちなのだから。

助産師になる際、男性であることは明らかにハンディである。繰り返すが、個人の妊婦がこれを忌避するのは仕方ない。しかし、法律がこれを拒む、チャンスを奪うのは容認できない。同じ根拠であらゆる差別的な排除が可能になるからだ。

それに、「他者」の存在は集団に新しい可能性をもたらすものだ。ぼくが初期研修医のころ、男性のナースはまれな存在だったが、とても優しい人が多かった。ナースになりたいという意志を持つマイノリティーなので、セレクションがかかっていたのだろう。これに対し、女性がナースであることは当時当たり前であり、そのセレクションがかからないぶん、(あくまでも一般論ですが)ある方面で過度に厳しい人もいた。しかし、男性ナースの「ある種の」優しさが普及し、女性ナースがこれに刺激されて近年の女性ナースは昔に比べてずっと優しくなっている、、、ような気がする。逆のことは医師にもいえる。以前に比べ、女性医師が増加したことで、男性医師は昔より優しくなっていると思う。女性医師の良い所から学ぶのである。

「他者」の存在は、そういう影響をもたらすのだ(だから、ぼくは外国人医療者の参入には賛成である)。他者は、しばしば新しい価値観をもたらす。そのきっかけを与える。等質な人間だけの集団はたいていいつかは停滞していく集団である。これは助産師だけの問題ではなく、社会のあり方そのものに関係した、一般的な命題なのだ。

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